プロローグ:出会いの空港ロビー
成田空港、第1ターミナル。
フライトまでの時間を持て余した出っ歯は、ぎこちない手つきで空港の案内表示とにらめっこしていた。
「…出国審査って、こっちで合ってるのかな……いや、その前にSIMカードって……あれ?」
手にはしわくちゃになったeチケットの紙。肩からずり落ちそうなショルダーバッグ。額にはうっすらと冷や汗がにじんでいた。
そのとき。
「おーい、にいちゃん。迷ってんのか?」
低く響く声が背後から聞こえた。振り向くと、黒いTシャツにリュック一つ、腕は太く、眉は濃い、どこか“旅慣れ感”をまとった男が立っていた。
出っ歯は戸惑いながらも、しどろもどろに答える。
「え、あの……初めての海外で、なんか……SIMとか……あと、なんで出国ゲートが2個あるんですか……?」
男は吹き出すように笑った。
「おいおい、なんだよその情報量。よし、全部答えてやる。名は?」
「出っ歯です……」
「俺はマッチョ。旅の兄貴って呼ばれてる。」
二人のはじまり
マッチョは空港ラウンジのビールより、見知らぬ若者の旅支度に付き合う方を選んだ。
搭乗までの1時間、二人はスマホ画面を突き合わせながら、SIMカードの設定や乗継案内の基本、スーツケースの預け方まで一通り話した。
「スカイスキャナーって、これどうやって国変えるんですか……?」
「右上の地球マークだ。通貨も変えられる。タイ経由なら、タイから発券した方が2割は安いぞ」
「マジですか!?」
出っ歯の目が一瞬で輝きを取り戻す。
その目を見て、マッチョは思った。
(こいつ、育つぞ。)
旅は、ここからはじまった
そして偶然にも、二人は同じ便の隣の座席だった。
マッチョは搭乗直後からアイマスクをかけ、フルフラットで爆睡。
出っ歯は映画で泣き、機内食の選択肢で緊張し、最後は「この旅が終わりませんように」と思った。
こうして、旅行ブログ「今日はどこまで行こうか?」は、この日この瞬間から静かに始まっていた
バンコクで迷子
スワンナプーム空港に降り立ったマッチョと出っ歯。現地時間の深夜0時。蒸し暑さが、すでに“東南アジア”を全身で感じさせていた。
「よし、ARL(AIRPORT RAIL LINKエアポートレールリンク)乗るぞ。ホテルはサイアム駅の近くだ。」
「え、夜って電車動いてるんですか……?」
「えーと、、、動いてねぇな。タクシーだ。」
タクシーはどこへ行く
流しのタクシーに乗り込むと、マッチョがタイ語っぽい英語で住所を伝える。出っ歯は緊張気味に後部座席に体を沈めた。
10分後。
「なぁマッチョさん……この道、海に向かってません?」
「川だ。チャオプラヤー川だ。」
20分後。
「……あれ?この辺、王宮じゃないですか?」
「王宮か?……ん?やばいな。おい運転手、ここどこだ?」
結局、タクシーは夜の王宮周辺を2周した挙句、「ホテルに着いた」と主張。しかし、そこは全然違う名前のゲストハウスだった。
出っ歯、覚醒
「どうしよう……地図も出ないし、英語も通じない……」
「おい出っ歯、俺のスマホもSIM死んだわ。ネット使えねぇ。」
二人が路肩で立ち尽くしていると、出っ歯がポツリとつぶやいた。
「……そうだ。さっき空港で買ったeSIM、オンにしてみます。」
すると、数秒で電波が復活。Google MapもLINEも復活。
「おぉぉぉおおお!!天才かお前!!」
「す、すごい!ネットってすごいですね!!」
その後、地図を頼りに徒歩15分。ようやく正しいホテルに辿り着いた。
夜食の屋台にて
「いや〜〜〜マジでサバイバルだったな」
「僕、ほんとに海外に来たんですね……」
ホテル前の屋台で、二人はカオマンガイを頬張る。
炊き立てのタイ米とチキンの香り。肌をなでるぬるい風。地元の人のざわめき。全てが旅だった。
「お前、昼間の出っ歯じゃねぇな」
「え……?」
「夜の出っ歯だ。ちょっとかっこよかったぞ」
「……え、なんか褒められました?」
はじまりの夜
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む二人。マッチョはすでにいびきをかいていた。出っ歯は窓の外の夜景を眺めながら、小さくつぶやいた。
「たぶん、この旅、何かが変わる。」
その予感は、当たることになる。
北へ向かう列車の中で
「なぁ出っ歯、バンコクも楽しかったけど、次は自然と寺だ。」
「えっ、どこ行くんですか?」
「チェンマイ。夜行列車で12時間の旅だ。」
[飛行機じゃないんですか?]
「夜行列車のほうが旅っぽいだろ」
そういうもんか。
出発はフアランポーン駅。薄暗いホームにずらりと並んだ長距離列車。乗客はバックパッカーや地元の家族連れ。寝台車に揺られながら、出っ歯は車窓の闇を見つめていた。
「なんか、遠くまで来たんだなぁ……」
ゾウと出っ歯とマッチョ
チェンマイでは現地のツアーに参加。自然保護区でゾウと触れ合う日帰りプログラムだ。
「マッチョさん……ゾウって、近くで見ると怖いですね……」
「大丈夫だ、ゾウもお前みたいなビビりは噛まねぇよ。」
「いや、草食動物ですよね?」
出っ歯がビクビクしながらバナナを差し出すと、ゾウがやさしく鼻でつかんでモグモグ。その瞬間、出っ歯の表情が一変した。
「……かわいい……!」
その日から出っ歯のスマホはゾウの写真で埋め尽くされた。
スクーターと山道と人生相談
翌日。二人はレンタルスクーターでドイステープ寺院を目指すことに。
「運転大丈夫ですか!?」
「おう、原付2種持ってるからな。お前は後ろで歌でも歌ってろ。」
「えっ、あの、曲はどうしましょう……」
「『世界に一つだけの花』でいい。」
山道をぐんぐん登る最中、出っ歯がぽつり。
「僕、最近ちょっと……仕事、悩んでて。」
「……ほう。」
「周りと比べちゃって、自分がちっぽけに思えるんです。」
マッチョは少し沈黙した後、スロットルをゆるめて言った。
「旅はな、世界の広さと、自分の立ち位置の小ささを“いい意味で”教えてくれるぞ。」
「……“いい意味で”ですか?」
「ちっぽけでも、自由なんだよ。誰にだってな。」
ナイトマーケットと光るランタン
夜、チェンマイのサンデーナイトマーケット。人々の熱気とスパイスの香りが交差する。
出っ歯は、屋台で買ったマンゴースティッキーライスを口に運びながら言った。
「マッチョさん……僕、来てよかったです。」
「……おう。お前、顔つき変わってきたな。」
その夜、ランタンイベントで願いを込めて空に放った。
出っ歯のランタンには、こう書かれていた。
「旅人になれますように」
マッチョはそれを見て、小さくうなずいた。
「……願いは、もう叶いかけてるな。」
帰国前夜、空港近くのホテルにて
チェンマイからバンコクへ戻り、翌日のフライトに備えて空港近くのホテルで一泊することに。部屋の窓からは、滑走路に灯る誘導灯が静かに瞬いていた。
ベッドに寝転ぶ出っ歯がぽつりとつぶやく。
「……明日、帰るんですね。」
「おう。早いもんだ。」
静かだった。いつものような騒がしさも冗談もなく、マッチョは缶ビールを片手に椅子に腰かけて、窓の外を眺めていた。
「……マッチョさん。旅って、どうしてそんなに大事なんですか?」
マッチョは一口飲んでから、静かに話し始めた。
「旅は、人生の余白」
「なあ出っ歯。人ってな、誰にも見られてないとき、自分が誰なのかよくわかるんだよ。」
「誰にも……見られてないとき?」
「旅先じゃ、肩書きも立場も関係ねぇ。医者だろうが営業だろうが、誰も気にしねぇ。金持ちだろうが貧乏だろうが、バックパック背負って汗かいてる時は皆おんなじ。」
マッチョはビールを置いて、続けた。
「仕事は戦場だ。家は基地。旅は……なんていうか、“余白”だな。ぎっしり書き込まれた人生のノートに、ぽっかり空いた白いスペース。」
「……余白。」
「その余白があると、書いてきたことの意味が見えてくる。俺たちは、立ち止まって景色を見たり、自分の輪郭を見直すために旅をしてんだ。」
出っ歯の気づき
しばらく沈黙が続いた。やがて出っ歯が、小さな声で言った。
「……確かに、僕、今まで“肩書き”でしか人と接してこなかったかも。学生時代も、会社に入ってからも。」
「そういうもんさ。でもな、出っ歯。お前、旅の途中でちゃんと“自分”で笑ってたよ。」
「……!」
「ゾウにバナナ渡してたときも、スクーターの後ろで歌ってたときも。あの時のお前は、肩書きじゃなく、“人間”だった。」
出っ歯は、気づけば少しだけ笑っていた。
翌朝、帰国のフライトにて
機内アナウンスが流れる。
「当機は、まもなく成田国際空港に到着いたします。」
「マッチョさん……また、行きたいです。」
「おう。次はどこがいい?」
「どこでもいいです。でも今度は、旅を“休暇”じゃなくて、“人生の一部”にしたいです。」
マッチョはにやりと笑った。
「……いい目つきになったな、出っ歯。」
機体が日本の大地に近づく頃、二人の旅は“終わり”ではなく、“はじまり”になっていた。
再び、それぞれの場所へ
日本に帰国したマッチョと出っ歯は、それぞれの「日常」へと戻っていった。
出っ歯は相変わらず、都心の営業会社でスーツを着て満員電車に揺られる毎日。
マッチョは、パーソナルトレーナー兼YouTuberとして、筋トレ動画と旅の編集に追われていた。
だが、旅の前とは確かに何かが違っていた。
「見る景色」が変わった
出っ歯は、ある朝の通勤電車で、ふと車窓に目を向けた。
以前ならスマホで仕事の通知を見ていた時間。今は、風に揺れる木々や、登校する小学生の姿に目が行くようになった。
「旅って、あんなに遠くまで行かなくても、自分の視点で変わるものなんだな……」
そんな想いを胸に、彼はひとつ新しい習慣を始めた。
毎朝10分、Google Earthで“今日の行きたい場所”を探すことだ。
「行けなくても、想像すれば心が動く。それだけで、ちょっと今日が面白くなる気がするんです」
「旅=人生のトレーニング」
マッチョは、ジムで筋トレを教えながら、旅Vlogも少しずつ編集していた。
「筋トレと旅は似てる。どっちも、“負荷”をかけるほど強くなるんだよ」
旅中に出っ歯が漏らした、「人生に旅って必要なんですか?」という問い。
あれから何度も考えて、出た答えはこうだった。
「人は、“日常”というルーティンから一度離れると、自分を外から眺められるようになる。筋肉だって、たまに違う刺激を与えないと成長しねぇんだ。」
彼は今、旅で得た哲学を“日常”という現場に落とし込もうとしていた。
1通のメッセージ
ある晩、出っ歯からマッチョにメッセージが届いた。
出っ歯:「また、行きたくなりました。」
マッチョ:「OK。じゃあ“次の旅先”会議、今週末な。」
そして次の旅へ
日常を変えたのは、旅そのものではなかった。
「旅を経た自分自身」だった。
彼らの旅は終わっていない。
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